noteにアカウントを作成した。 十日ほどで3記事公開している。 これはアジテーション的な文章は個人サイトよりも見られる可能性の高い巨大プラットフォームで公開した方がいいのではないか、と考えた結果そうなっった。 個人サイトのアクセス解析をチェックしていないから正確に比較はできないが、noteにアップした記事はじわじわ閲覧数が増えているので、爆発的なバズはないにしろ少なくとも「見られる」ことには成功しているらしい。

しかし、公開するために文章を整えているうちに読ませるための文章に人格が喰われている気がするようになってきた。

つまり、説得力ある文体のためには、思考の複雑さによる混乱や強く言い切ることへの迷いは必要とされない。 「〜かも知れない」、「〜だろう」、「〜だと思う」は推敲で、あるいは初稿の段階で言い切り型の語尾に整えられる。 公開するための文章を書く、と決めた時点で「私」自身の曖昧さは剪定され、自信満々の見知らぬ「筆者」が立ち現れることとなる。

書くためのもう一人の人格。

私はこれを一種の狂いである、狂いがないと文章で見知らぬ誰かに意見を表明できないのだ、と考えた。 おそらく文章で意見を表明し続ければその文体に私の人格は侵食されるに違いない。

意見を書く文体に引っ張られて尊大に/独善的になりすぎないよう、昼間の書いていない私と夜のアジ文を書く筆者のバランスを考えながら執筆に臨むことにしたい。

もっとも人に見せるための文章を書き続けたら性格が変わった、などという話は聞いたことがないから、杞憂なのだろうけど。