父親は幼いわたしのことをファインダー越しでばかり見ていたのではないだろうか? そのくらいカメラを構える父の姿ばかり覚えている。

重くて黒い写真機、F3を構えて、レンズの鏡胴を回す。 じっとわたしの動きを観察して、シャッターボタンを押す。 かしゃんとシャッターが落ちて、フィルムを巻く。

それは儀式めいて見えた。

元から騒がしい人間ではない父がなお静謐に見えた。

いつかは自分もそうやって世界を見るのだと思った。

アルバイトを始めてからだろうか、自分も写真機を手に入れた。

時代はすでにデジタルカメラの時代だったが、一度にカメラとレンズを揃えるお金がなかったので、フィルムカメラを購入した。 当時はもうフィルムは終わった扱いでたしか1万円もせずに本体とレンズを手に入れられた。

わたしが手にしたのはNikomatとその標準レンズ。

自分よりはるか年上の機械式の写真機は快調に動いて、わたしに撮影することを教えてくれた。

露出、被写界深度、シャッタースピードを決めること。 もちろん、世界をファインダーで見ることも。

Nikomatのファインダーの向こうはわずかにぼやけて、端が暗い。

その世界を片目でにらみながら、焦点を合わせる。 そこだと思ってシャッターを切ると、バタンと音がしてフィルムに光が焼き付けられる。 半分は勘のような作業だったが、現像し焼かれた写真は自分の目で見るよりも精細に被写体を描写していた。

写真とはそういうものなのか、と思った。

父が亡くなってから、はじめてF3に触れた。 あいかわらず黒くて重い機械だった。 装着されたレンズはツァイスだった。

かつて父がわたしを捉えたようにわたしはきょうだいにカメラを向ける。 フィルムは入ってなかったから、ほんの戯れだ。

ファインダーを覗いて、あっと声が出た。

F3のファインダーが見せる世界は明るく、広かった。 兄弟の目鼻がはっきり見える。 浅い被写界深度でも、ピタリと焦点を合わせられた。

わたしが父と同じことをしていたと思っていた撮影は父のとは全く違うらしかった。

わたしはまだNikomatを使っている。 曖昧なファインダーを見ながら勘を頼りに写真を撮っている。

Nikomatが、世界を切り取るためのわたしの機械だから。