記憶の忘却は失敗なのか?
薄れゆく戦争の記憶 AIが「つくる」のではなく「つなぐ」 高校生らの地道な手作業と風化させない決意 - Yahoo!ニュース(魚拓)という記事を読んだ。
戦争の体験や証言を最新の技術を使って触れやすくしたり、当時の写真をAI着色して身近なものとして感じやすくさせるといった取り組みの紹介記事だ。 「AIはあくまで補助的な装置であり、実際の取組には人間の労力も使っている」という専門家の解説がついている。
わたしは常々疑問に思う。
なぜ戦争の記憶は他の記憶と違って、時の流れに任せてそのまま薄れさせてはいけないのだろう。 なぜ最新の技術を使って現代的な形に作り変えてまで残さなければならないのだろう。
ある出来事の体験者がいなくなってその語りの記録(書き起こし・録音・録画などなど)をそのまま解読できる人がいなくなったら、そこでその記憶は"消費期限切れ"で大衆への連続性は断ち消えてしまうのではいけないのだろうか。
模範解答は「戦争は悲惨で、二度と繰り返してはいけないから」だろう。
けれども、それはとても価値判断的でわたしの知る歴史の考え方からは離れているように思えた(*)。
歴史として戦争のことを取り扱うのであれば、現代人に理解しやすいように写真に色を塗るのは資料の改竄に近いのではないか?
現代人向けに人間の手やAIを使って再構成された語りは歴史なのか?
過去の出来事の語りを基にして行われているのは歴史の学びではなく、倫理や道徳の授業じゃないか。
もちろん倫理や道徳の授業は無益ではない。 でも、倫理や道徳を身につけるためなら歴史の学びの方法が軽視されてもいいのか、ということがわたしにとっての違和感なのだと思う。
*もっとも筆者は結局は歴史学で学位を取らなかったから素人である
記憶の継承は歴史学とは違うらしい
この戦争体験の問題はずっと疑問に思っていて、何度かマイクロブログにも書いてきたのだけれどもあまりツッコミはもらえなかったのでLLM(*)に関連する歴史理論がないかを質問してみた。
それを元に調べたところ、つまり「記憶の継承」は「歴史」の一部ではあるが「歴史学そのもの」ではないということが言えそうだとわかった。
歴史学は、現代に残された資料を読んで比較し矛盾を発見し、社会や出来事を再構築しようとする学問だ。
一方で戦争体験をつなぐ活動は「記憶の継承」と言い換えることができる。 その活動は誰かの証言に近づいてそれらを残し、そして倫理的・道徳的な問題を考えて伝えるのが目的だ。
歴史学であれば、ある証言はどのような立場のどのような人物の発言で時間や社会の変化とともに証言の内容も変化したのではないかと考える。
記憶の継承活動においては、主観的な証言の感情そのものが重視される。
Collective memoryやCultural memoryを扱うのが記憶の継承だということらしい。
*ChatGPT-5.6 Sol 推論レベル中程度(2026年8月14日利用)
記憶は再生産される
わたしは抗日ドラマを見る時によく「これは『民族の記憶』だ」と言う事がある (“民族"の記憶は少し用語が不正確だから「中国社会における集団的記憶」くらいにするのが正しいだろうが)。
例えば、少し笑みを見せた中国人を日本兵が殴る。 別々のドラマで何度かこのようなシーンを見た。
名前もつかないような日常の暴力で、きっと本当にあったのだろうが公式な記録には残らないような類の出来事である。
それでも誰かに支配されるということはどういうことかを示すために何度も繰り返される。
おそらくは現代中国社会の人々自身が抗日戦争時の父祖の記憶を我々の記憶として扱えるように。何度でも。
これがわたしの言う「民族の記憶」で、一般的に使われる用語としてはcollective memory=集合的記憶が近いようだ。
集合的記憶は、放っておいても勝手に形成されるのものではない。 社会の中で頻繁に思い出されることでそのかたちは強固となる。
つまり、日本社会の構成員はドラマを通じてではなく語り部の話を聞くことが「民族の記憶」の再生産装置だということなのだろう。