線香の香りを好ましいと思うようになったのは親が亡くなってからだ。

「お線香は仏さんのお食事やからたくさんあげてください」と和尚さん(おっさん、と家のものは呼んだ)が言ったので、仏前にと贈られた桐箱に入った線香から一本ずつ選んでは位牌の前で線香を燻らせた。

マッチを擦って、火をつけて、炎を消すと、すぅっと白く薄い煙が伸びる。 そして、あのえも言われぬ芳香が広がる。 なんの匂いかはよくわからなかったが、美しい、と思った。 花とも香水とも違う、煙っぽくても魅力的な香りだった。

けれども新しい家に越してからはその習慣はすっかりなくなってしまった。 生活リズムが変わったし、家の密閉性が高まって香りがこもり他の部屋まで流れていってしまうからだ。

だからしばらく線香のことは忘れていた。 他の香りもの、VAPEとかキャンドルのことも忘れた。 亡くなった親のことは、そんなに忘れなかった。

筆者は京都に住んでいる。

みなさんご存知の通り、寺社仏閣の多い土地であり、和の雰囲気を求める観光客の多い土地でもある。 だからみやげもの屋や博物館のミュージアムショップなどに立ち寄るとお香が売られている。 伝統工芸館の販売所で選びきれないほどのお香とお香立てを売っているのを見て、線香は弔うためだけでなく自分の楽しみのためにも燻らせていいのか、と思った。

それからネットのアドバイスも見た。 効果があったのでここにもメモしておく。 つまり、窓を開けて換気することで24時間換気で他の部屋に煙が流れるのを阻止する。 ごく近くで線香を燻らせるのではなく、少し離して煙のにおいではなく香の本来のかおりを感じられるようにする。

今も線香を燻らせている。

真鍮の香立てに少し傾げたように立てられた細い香の先は白く、そしてほんのりと火の赤みが見える。 煙はうっすらと揺れながら周りに広がる。 香りはふくよかに複雑で、遅れて煙っぽさもやってくる。 しばらくするとぽとり、とかつて線香だった灰が受け皿に落ちて香りもやがて消えゆく。

たぶん明日も自分のために香を薫く。

亡くなった親のことは、まだ忘れていない。