今は18時50分。
駅のホームでiPhoneのエディタを前にフリック入力を続けている。 朝時間と休憩時間で文章を書こうという試みは寝坊と飲食店の混雑で阻止された。 仕方なく帰宅の途で必死に文章を書いているわけだ。
しかも内容はまだない。
タイトルだけ執筆ノートから取ってファイル名にしてみたが、何を書こうとこのタイトルをでっちあげたのか想像もつかない。
おそらく「なぜわたしは書くのか」という内容でネタ出しをしていた時に出た案だったので、つまり書くのは「俺自身が歴史になることだ」というのが理由だ、ということだろう。
この題名はまるで誇大妄想狂の叫びのような一言に聞こえるかも知れない。 だが書くことは歴史の一部になることなのだ。
そのことについて今日は論じてみよう。
ここにオンフィームという少年がいる。 彼は王でも英雄でも革命家でもない。 しかし歴史に名を残し、筆者にも名を覚えられている。
一体かれは何者だろう?
彼は何者でもなかった。 13世紀のノヴゴロドで、まだ紙ではなく木の皮が使われていた時代に文字を練習する子供だった。 しかもフレーズの繰り返し練習をしても飽きっぽく、練習用の木の皮に怪獣の絵をらくがきするような普通のよくいる子供だった。
しかし、ある1点で彼は後世に名前を伝えた。 一体どうやって?
歴史学とは残された文章をもとに過去のできごとを再構築する学問である。 遺物や遺跡、あるいは口述記録を活用することもあるが、主役は文書である。 そして歴史の対象となる文書は正式な書類だけではない。 書籍、手紙、チラシ、雑誌、新聞、メモ、そして手習いの反故ですら、歴史の対象になり得る。
オンフィーム少年は、たまたま文字の練習に署名していてそれが上手い具合に残された。 (オンフィーム以外の子供の手による練習も実は残っている。しかし文字の練習に自分の名を交えたものが残っていたのは彼の手によるもののみだった。)
全くの偶然で歴史の一部になることもあるのだ。
ここまで読めば、筆者の言いたいこともなんとなく伝わっただろう。
書くことは未来に過去を伝えることである。
今、電車の中でフリックする筆者は次の瞬間には過去になっている。 今、考えたことは文字にしなければ霧散するが、しかし文字に書き留めれば未来に伝わる。
オンフィーム少年が名を残したように、この文章が600年のちにまで伝わることはきっと難しい。 それはデータでしかこの文章は記録されておらず、デジタルデータは比較的すぐに読み出しが難しくなるからだ。
このことに抗おうと筆者のウェブサイトの文章はローカル保存を推奨しているが、いくら完璧なデジタルコピーが複数あっても、やはり紙・木の皮・石材に記録された文字に勝るものはないように思う。 (そもそも本当に気に入ってローカル保存してくれる読者はいるんだろうか?)
だから次に筆者がやるべきことは紙媒体への進出だろう。 書いたものをテキストデータから紙に刷って折って綴じれば本になる。
本という物体になれば、誰かの手から手へ渡り後世に残るかもしれない。 あるいは燃えて消えてなくなってしまうかも知れない。 どういう運命を辿るかはわからない。 けれども、きっと来年は自分が作った自分の本を手にしている。
俺自身が歴史になるために。