昭和十七年正月。

正月だったので、帰省した。

帰省と言っても京都市内の移動である。 吾は骨まで冷えるような京都の街を歩く。 靴の中の足の指がしもやけでむずがゆい。 足を前に出すたびにヒヤリと衝撃が足に響いて吾は震える。

冷たな風で顔の筋肉が固まる。 もっとも吾は普段より笑いもせぬ、怒りもせぬ。 ただ妙な形で顔面が凍りついただけの話である。

実家のあたりの風景は何も変わってはいなかった。 実家に近づいてくると、早く家で暖まりたいという気持ちと家の者と顔を合わせる億劫さが吾の中でぐるぐると戦い始める。 吾の足の歩みが鈍くなってくる。

煙草でも吸おうと外套のポケットに手を入れる。 顔だけでなく指先も冷え切っていて、箱から一本取り出そうとしても上手くつまめぬ。 吾は諦めて手を戻す。

実家の前に着いたとき、やはり白梅町の部屋に帰ろうかと一瞬考えた。 しかし、この冷え切った身体でまた同じ道を引き換えせというのか。

観念して戸を開いた。

戸を開いたら下の妹がいた。 吾を見て何が嬉しいのか、「お兄ちゃんだ」と笑った。

「お兄ちゃんが来たよ」と大声を出す。 吾はその声に辟易とする。

家の者と顔を合わせ、吾はもごもごと「あけましておめでとうございます」と挨拶をした。 挨拶はしたが、何もめでたいことはないのである。 この「非常時」にあっても、非常時だ非常時だと騒いでおきながら正月が廃止とならぬのは腹が立つ。

そんなことを考えていたが、母親が鬱陶しそうに吾を見たので目を伏せた。

実家の様子は変わらなかった。 ただ、風をしのげて家の中が暖かいことは助かった。

「お兄ちゃん、まだ書いてるん」 下の妹が熱いお茶を吾に渡しながら聞く。 「うん」と、受け取った湯呑みで指を温めながら吾は答える。

「お兄ちゃんの書いてるもの、うちにはよくわからへんけど……」と下の妹は続ける。

そう言って感心したような呆れたような顔をしている。 そんな顔をするならなぜ聞いたのだろう、と吾は思う。 実家でいつも使っていたはずの湯呑みが妙に重い。 それは温かくはあったが、どうも指に馴染まぬ。

吾は熱い茶をすする。 味はわからなかった。 ただ熱だけが喉を通って、冷えた胃のあたりに落ちていった。

「あんまり根を詰めすぎひんようにね」とだけ言って、下の妹は立ち上がった。


上の妹の子が「じじ」と吾を呼んだ。

小さな眼は、吾の目の奥をじっと見つめる。 いつもならばすぐに目をそらしていただろうが、子供のことである。 吾はそのくりくりとした目を見つめ返す。

「”じじ”やないでしょう、おじちゃん」と上の妹は注意したが、吾は子供が話しはじめるのは早いものだなと感心した。 吾の中でこの甥はまだ上の妹に抱かれてふにゃふにゃと泣いていた赤ん坊であった。

吾がやることもなく煙草を吸っていたら、「この子、ちょっとだけ見ててくれへん?」と上の妹が言った。 この妹は都合のいい時だけ吾に話しかけてくるものだなと思った。

仕方がないので、甥を着込ませ手を引いて散歩に連れ出す。 甥は小さな手で吾の指を、それだけが全ての繋がりであるかのようにしっかりと握る。 子供は何を考えてるのかわからぬ。 また考えというものを口にする言葉も持たぬのである。

路地を連れて歩いていると、細くて小さな指で指差して「あれなあに」と吾に聞いてくる。 吾が「風呂屋の煙突……」と答えると満足そうな顔をしていた。 この子供は何も知らぬものなのだなと思う。

「じじはなにするひと」とまた喋る。

吾は、寝て、食って、屎をして、原稿を書いたり書けなかったりする者である。

「じじは文学者だよ」と言っておいた。

甥はわかったのかわからなかったのかわからぬ顔をしている。

子供の手を引きながら、吾は自分が女だったら、と想像する。 たぶん、女の吾は原稿を書く言葉も持たずにどこかで誰かの妻にされていたのであろう。 黙って亭主と床を共にして、子をなして、そして静かにその家で死んだであろう女の吾を頭の中で見る。 それは首をくくった若い女の骸であった。

また「じじ、あれなあに」と甥が聞いてくる。

「鳥だよ」と吾は答える。 今度の答えにはまた満足そうな表情を浮かべる。

文学者だよ、はよほど気に入らなかったらしい。

そうしてぐるぐると歩き回っているうちに実家にまた戻ってくる。 上の妹は「助かったわあ」と軽く笑って、義弟は「ありがとうございました」とだけ言って、吾は黙って煙草に火をつける。


客間で義弟と二人きりになる。

この客間には下の妹が書いた掛け軸が掛かっている。 自信に満ちた墨の筆跡は、力強い。 吾は原稿用紙の上にのたくった自分の文字を思い出す。 吾を嗤っているのは吾自身の字なのか、それとも黒々とした妹の書なのかわからぬ。

どちらにしろ、下の妹の書は直視するに堪えなかったが、しかしそれ以外に目のやり場もなかった。

陸軍で経理をやっているとかいう義弟はおそらく職場と同じであろう生真面目そうな顔をして湯呑みを傾けている。

吾は黙って煙草を吸い続ける。

ひっきりなしに吸う煙草の煙だけが吾と義弟の間に漂う。

しばらくの沈黙の後、

「お義兄さん、原稿は順調ですか」

と義弟が口を開く。

義弟のその問いに、吾は刹那黙って煙草の火を見ていた。 「順調、という言葉は好きではありません」と答えようと思ったが、口からは「……まあ、ぼちぼちと」という小さな声が出ただけだった。

義弟は「それはよかったです」と微笑んだ。

子が子なら親も親だ、と吾は思った。


食卓でも黙って雑煮をつついた。 義弟がどこからか融通してもらったのか、どうにかやりくりしたのか、薄い白味噌の雑煮である。 母親は「上出来やね」と言っていたが、どうしようもなく水くさい雑煮であった。

まず、出汁が薄い。

こういうのは思い切ってびっくりするほどたくさんのかつお節でお出汁を取るものや、と母親が上の妹に教えてやっていた声を聞いたのはいつだっただろうか。

さらに、白味噌も少ない。 わずかに濁った汁の中の具が見える。 口に入れると甘味はまるでない。

「非常時」前はもっと濃く甘くて汁を飲み下すと喉が熱くなったな、と吾は思い返す。

家の者は、どこそこの息子さんは今度出征らしいとか、配給がどうだとか、何やら非常時らしい話をしている。 正月だというのに随分深刻そうなことだ。

吾は家の者の中では空気である。

また吾の父親も空気である。

吾と同じく黙って雑煮を食べている父親をちらと見る。 吾と似たような陰気臭い顔をした老人である。

ただこの人は書かなくともよい人間であった。 文学というものをそのまま受け入れるだけでいい、そんな人間であった。

吾は海老芋をかじる以外に口を開くこともなく、食卓の時間は過ぎていく。


夜、吾は昔の自分の部屋で寝転がっていた。

天井の染みは昔と変わらぬ。 昔寝る前に考えていたのと同じように染みの形を化け物に見立てる。 化け物は天井の中で暴れている。 昔は気に入らない教師、同級生を想像の中で襲わせていたものだった。 今は意味もなく天井の中を徘徊している。 おかしな化け物だな、とふと笑う。

目を落として本箱の背表紙を眺める。 乱雑に並んだ色とりどりのそれは学生時代に読んだ文学書ばかりである。

昼間の「じじはなにするひと」「じじは文学者だよ」を反芻する。

あの頃は間違いなく文学者になるつもりであった。 なれると確信し、詩や小説らしきものや拙い評論を書き殴っていた。 怖いもの知らずだったのか。 あの頃は迷うことなく言葉が原稿用紙を埋め尽くしていた。

今も原稿用紙は鞄に仕舞われている。

ただしそれらを出す気にはならぬ。 また出したところで書くこともなし、書けることもないのである。 日記帳だけは習慣で渋々開いたが、こちらも筆は進まなかった。

迷って「甥にじじと呼ばれた」とだけ書いた。 相変わらず弱々しくのたくった文字だった。

それが滑稽なのか、哀れなのか、吾にはわからなかった。

吾は日記帳のページを閉じいつも通り煙草をくわえようとする。 昼間に義弟と一緒だったから、もはや一本も残っていないのであった。

諦めて横になって目を閉じる。

閉じた瞼の裏に幾何学模様が見える。 目で追うと、きらきらと複雑な色で図形たちはきらめく。 吾に絵の心得があれば、瞼の裏から取り出してキャンバスに広げてやることもできたかも知れぬ。 目玉を動かすたびに弾けるように色を変える図形たち。

吾はしばらくその形を追いかけて遊んだが、頭痛がしてきたのでやめた。

夜は深いが、眠れそうにもなかった。


白梅町に帰って、すぐに布団に沈んだ。

実家に帰った後はいつもそうであった。 吾は自分の弱さを呪いたかったが、呪う気力もなかった。

ただ、天井を眺めていただけであった。

誰も心配するものはない。 いつも通りである。

二日、三日、と吾は天井と見つめ合い、四日目になってやっと布団から這い出した。

鏡の前に立って、疎らに伸びたひげを剃る。 久しぶりに天井以外のものを見たなと思う。

やつれた青白い顔をした男が鏡の中にいる。 吾自身の顔なのに、恐ろしく遠く感じた。 剃り終えた後の自分を見て吾は目を逸らす。

理由は、わからなかった。